最終兵器彼女.....

      Loli被推倒鸟. 2004-11-11 18:59




最終兵器彼女

高橋しん作の連載漫画、単行本は全七巻。副題として「THE LAST LOVE SONG ON THIS PLANET」と付されている。北海道の田舎に住む高校生シュウジと、その恋人「ちせ」、そして世界中の人々は徐々に混乱の時代に突入する。突如と国籍不明の爆撃機に空襲された札幌、それを迎撃するは最終兵器に改造されてしまった女子高生ちせ、戦争、異常気象、地震、全てが唐突に人を襲う。ちせは兵器として戦場に立ち、一方で女子高生として恋愛に興ずる、この対称が無意味なまでの美しさを演出する。

感想
この物語は突拍子もない設定から始まる。第三巻の辺りで混沌は絶頂を迎えるが、混沌は徐々に破綻の時を迎え始める。第六巻以降はやがて混沌は息を潜め、かえって純粋な道筋が示されたとも言える。なぜなら混沌というのは、秩序と破綻の境界線上、カオスの縁でしか存在し得ないからである。そこ以外、整然とした秩序と、対する無秩序の極限とには、もはや迷いの入る微塵の余地さえ与えられていないのだ。

秩序立てるためにこの物語を三つの側面に分けて考えてみたい。即ち、

戦争
地球
恋路
である。もちろん物語はこれらが一体となって、複雑に入り組んだ総体となって成立するのであるけれど、敢えてここで分けるのは、一つ一つに重要性が等しく分け与えられている一方で、どうも融合する際に若干の失敗を含んでいるように思えたからである。

戦争
戦争が無ければ何も始まらなかったはずだ。彼女が兵器に改造されることもなかった。彼女は兵器であって兵士ではない。最終兵器は、その余りに強大なために、最終兵器と呼ぶべきなのである。つまり兵士は敵と味方に分けられるけれども、兵器は敵も味方も選ばない。結局は使う者によるということであろうが、最終兵器が制御できうるような兵器であるならばそうは呼ばれないであろう。

つまるところ兵器とは純粋に破壊のための道具に過ぎない。見えない敵に対して大量破壊兵器が何の役に立つだろうか。ベトナム戦争、ゲリラ戦の様相に、強国は大量の枯葉剤を撒き散らした。それは戦場が敵地であったが故の選択だろう。自衛隊は戦場と化した国土において、唯一の抵抗勢力である最終兵器を投入せざるを得ない。東京に原爆を落とせば、確かにそこを攻めてきた敵兵を殺せるだろう。だが同時に、味方の兵も、一般市民も、街の全てを、破壊してしまうのである。かような爆風を神風と呼ばざるを得ない時代。

この物語において人間はいとも簡単に死んでいく。好きな女のために自衛隊に入ったアツシは、敵襲のない戦場で空しい日々を送り、突如と湧いた奇襲に驚き、そして己の軍の最終兵器によって亡き者にされてしまう。

普通の兵器は感情を持たない。だのにどうして、最終兵器が女の子でなければならなかったのだろう。

兵器は、人を殺した時に、何を思うのだろうか。

目的を達成した事に打ち震え、歓喜の歌を歌うのかも知れない。兵器の存在理由の全ては、敵を破壊し殲滅する事にあるのだ。兵器にしてみれば戦乱や敵襲は宴の始まりであり、一週間ぶりに獲物を見つけたライオンの気持ちなのだろう。百獣の王ライオンは、実のところ余り狩りが得意ではない。確かに彼に勝る動物は居ないが、巨体のための鈍足はとてもハンターになり得ない。しかも強いが故に誰も油断を見せてくれないのだ。そんな彼の狩猟スタイルは簡単だ。横取り、他の肉食獣が倒した獲物の匂いを嗅ぎ分け、王の叫びを吠えては恫喝して奪い取るのである。王にはどんな傍若無人も許されており、自ら狩りをする必要もなく、ただ欲望の欲するままに搾取すれば良いのである。それが百獣の王の王たるゆえんなのだから。 ……兵具の王、最終兵器は何を思う。

無から有を生み出せないように、有を無にする事さえも、人の手に負えない。質量保存の法則、如何に形が変わろうと原子レベルでは変化させられない。原子爆弾の強大なエネルギー発散でさえ、質量の減少はわずかである。太陽は巨大な原子爆弾であり、高密度のヘリウムガスは自らの重力を支えきれず崩壊、最もシンプルな元素である水素へと遷移する。その過程で失われた質量こそ、あの輝かしいエネルギーなのである。太陽は己の肉体も燃やしながら輝き、そしてやがて燃え尽きていく。

まるで人間だ。ただそこにヘリウムが集まっただけで耐えきれず爆発する。その癖に質量は引力を持って集まりたがる。勝手に集まって勝手に崩壊。まるで人間だ。

戦争だってそうなのだ。最初から目的などないのだろう。誰も望んでいない一方で誰もが望んでいる物、人間の集合の中庸に戦争が存在する。本当の意味で戦犯など居ない事を歴史は物語っているではないか。市民にとって戦争は、突如として湧き出て、ただ逃げまどうだけの物。軍人にとって戦争は、己の存在理由であって目的達成の唯一の手段であると同時に、一方で殆どの場合は役に立てずに死んでいく物。攻め込まれた国にとって戦争は、我が国土を守らんとする、正義の仮面をかぶった物。戦端を切った国にとって戦争は、武力でしか国土を維持できなくなり、国家の責任を果たすための物。市民が人を殺せば罪を問われるというのに、戦場で敵兵を殺す事は賞賛に値する。

目的のない物を目的とする矛盾、戦争。

地球
太陽は燃えているからこそ太陽である。そして燃え続けるが故に終わりもやって来る。生物もそうだ。動くからこそ生きているのであり、生きているからこそ終わりもやって来る。地球もまた然りである。

何と僭上な自称であろう、兎も角我々人類という種が地球に誕生したのは僅かに三万年前と言われている。文明が発生してから四五千年、言うなれば人類の六分の一が歴史として記録されているのである。それぐらい短い間しか我々は生きていない。

我々は動物として明らかに劣っていた。か弱い身体を保つために、我々は頭を使わざるを得ず、そしてそれは脳の肥大化を招いた。頭でっかちな人間はその脳が仇となって生命の最も重要な部分に支障を来した。頭がつっかえて産道を通り抜けられないのである。だから人間は、まだ脳が完成する前、未熟児の状態で早くも出産を迎えなければならなくなってしまった。人間は子育てに異常なまでに長い時間を割く必要に迫られたのだ。こんな不器用な動物が他に居ようか。

人間は破壊神である。弱いが故に破壊する事でしか己の生命を保つ事が出来ない。人間という種が誕生してまもなく、早くも一つに危機に直面したという。手っ取り早く大量の食料となる大型哺乳類、これを人間は大量搾取、瞬く間に大型哺乳類の八割が絶滅したと言われている。食べる物を取り尽くしてしまったら、人は食べ物を育てようとするのだろう。農業を、創造と呼べるのだろうか。農業も破壊に違いない。ただ大地に蓄えられた有機物を、人が摂取し易いように形を変えているだけで、結局は地球を食っているのだ。この調子だと、すぐに地球を食い尽くしてしまうのは目に見えている。

人間は破壊せずには居られない。今も昔も破壊してきた。人間だけじゃない。全ての生物は、全てのエネルギーを有する物は、この世のあらゆる物は、他を破壊する事でしか自分を主張できないのである。火災はそこに燃える物がある限り燃え続ける。太陽はそこにヘリウムがある限り輝き続ける。その先には破滅しか待っていない。

人類は遂には破滅するだろう。地球もその内に破滅してしまうだろう。だったら破壊する事を怖がっていても仕方がない。精一杯破壊すれば良いのでは無かろうか。

……違う。私の中でぼんやりと否定の念が生じる。我々は長生きするために破壊する。では長生きしたいのならば破壊を辞めなければならないのではないか。破壊を辞めれば人間の生きる事が出来る環境が少しは長く続くであろう。だから破壊を辞めようと。

矛盾だ。全く矛盾だ。破壊せずには居られない。でも破壊しては生きれない。この矛盾の上、即ちカオスの縁で人間は細々と生きていかなければならない。無矛盾など、この世には存在しない。自重で崩壊する太陽のように、人間は自分で崩壊して行く。ただその崩壊のエネルギーが、どんな色に光り輝くか、それはまだ決まっていない。

一つの確信は、たかが頭でっかちな人間に地球を壊すなんて出来ない事、そして地球にとって人間なんて寄生虫の一種に過ぎないという事だ。地球が死ねば、寄生虫も死ぬ。当たり前の事だ。

思えば病原菌なんてのは矛盾に満ちた物質だ。宿主が死に至ってしまえば己が生存も危うくなりかねない。だから普通の病原菌は生かさず殺さず搾取しながら生きていくのである。

恋路
この物語の結末は余りにも空虚に過ぎた。戦争の物語として或いは地球の物語としては、それでも良かったかも知れない。だがこの物語は、作者も言っているように、恋の物語なのである。それを軸に据えたがために、この結末は余りにも空虚で、そして幼稚でさえある。

シェイクスピアによると真の恋路は平らだったためしがないのだそうだが、それにしても「ちせ」の恋路は平らでないにも程が過ぎる。彼女に言わせれば、恋をしている限り人間でいられる、のだそうだが、私に言わせれば恋なんてものは人生の中で限りなく烏有に近い存在なのである。ちっぽけな存在だからこそ簡単に逃げ込めるし一瞬に露と消えていく。そんなものに頼って生きている人間なんてたかが底が知れているし、そんなものでしか人間を保てない時点で、夙に人であるを失しているのである。

恋と何かを天秤に掛けている時、人は自分自身への言い訳を、最後の逃げ道を作っている時なのだ。火災でもなければ非常口を使ってはならないし、使ったとたんにそれは本来の目的から離れてしまうのである。それは使う事に目途を有しておらず、そこに有る事、その一点においてのみ価値を見いだしうる。

つまるところ作者は、たかが恋に逃げ出してしまったのだ。

結局作者は恋には何かしらの諦め、一種の犠牲を払っても仕方のないものだと言いたかったのだろうか。そんな物に幸せは訪れない。幸せは独りで得る物ではなくて周囲の祝福の内に感じる物なのだから。とすれば恋は幸せとは無関係なのだろうか。確かに恋が必ずしも幸せだとは限らないが、恋は幸せへの羨望であり懐愛である。思慕は空頼みにも似た感情に発露を求め、見上げた天には昼夜を問わず星が儚げに光っては消えている。目の前の星もいつか消えるだろう。そのいつかが今まさに目の当たりにしている。その情景を恋の一字に還元してしまうなど愚かな事と言わずして何と言おうか。

人間は一人でも生きていける。もちろん独り、即ち単体では生きていけないけども、少なくとも地球に他の人間が居なかったとしても私は充分に生きていける。充分? ただ息をして他の生物を食らっては糞をして、敵に怯えたかと思えば弱い物を平気で殺す。確かに充分だ。生きるという事に違いない。寧ろ精一杯に生きていると言えるかも知れない。その姿は生き生きと見える。これは錯視によるものでは無かろう。

土台、恋と戦争を並列させた事に無理があったのであろう。両者の対比と融合は確かに美しかった。けれど美しいだけだった。空虚な美しさだった。




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