Designed by [Zddla]
   &Powered by
[5Dblog]. 

 
 

関羽[2006222|8:27]

 
 

関羽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
関羽(かんう ? - 219年)は中国三国時代の蜀漢の武将。字は雲長。長生から改めたという。正式な表記は「關羽」。司隷・河東郡解良(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。諡は壮穆侯。男性。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髭公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。

その武勇、曹操が義理堅いと評した事から、後世の人間が神格化し関帝(関聖帝君・関帝聖君)とした。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。

『三国志演義』では主役の劉備の義兄弟として特別扱いを受けており関公と呼ばれている。

関帝(かんてい)とは三国時代の著名な武将の関羽が神格化されたものである。関聖帝君(かんせいていくん)と呼称される事が多い。

正式名としては「伽藍神」、「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」、「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」に封じられている。 関帝聖君、関帝翁、山西夫子、関夫子、蓋天古仏、協天大帝、伏魔大帝、関帝菩薩、伽藍菩薩など、多くの呼び名を持つ。


関帝を祀る廟を関帝廟(武廟)と呼ぶ。

旧くは武神、現在は主に商業の神として信仰され、中華街など華僑の町にはほぼ必ず祭壇が設けられている。

関帝廟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索

関帝廟 (神戸市中央区中山手通)
本堂
慈眼山長楽寺 通称、南京寺関帝廟(かんていびょう)は、関帝(関羽・関聖帝君・関帝聖君)を祀る廟。孔子を祀る孔子廟(文廟)に対比させて、武廟(ぶびょう)とも呼ぶ場合もある。

関帝廟の本殿は中央に関羽を祭り、右側に養子の関平を、左側に関羽の武将周倉の二神として祭っている。

関羽は、信義や義侠心に厚い武将として名高くまた三国志演義の普浄の逸話などから、民衆によって様々な伝承や信仰が産まれ、信仰を高め、また後の王朝によって神格化されていった。その関羽を祭ったほこらが関帝廟の始まりである。

また、関羽は塩の密売に関わっていたとも言われ、蓄財にもたけていたと言う伝承や義に厚いと言うことは、商売に一番必要な信用(約束を守る)をつかさどると言う意味でも取られた事から商売の神としても知られている。そのため世界中に華僑が散らばっていったときに、商売が繁盛する様にとその居住区に関帝廟を立てた。そのため世界中の中華街などで関帝廟を見ることが出来る。



目次 [非表示]
1 生涯と伝説
1.1 その生涯
1.2 その人物
1.3 三国志演義では
1.4 常平郷での伝説
2 関連項目



[編集]
生涯と伝説
[編集]
その生涯
その出身地から、塩の密売に関っていたといわれている。また、暴利をむさぼる塩商人を殺したともいわれている。官吏に追われて幽州に逃げ、おそらく姓名を変えて関羽と名乗った。その後、劉備・張飛と出会い、終生劉備に忠誠を尽くした。黄巾の乱の時からの劉備の部下。地元・山西省の研究では、関羽は劉備より年上ながら、劉備を兄として仕えたという。

曹操が呂布を破った後、劉備が曹操を裏切って破れ袁紹の元に逃げると、曹操の捕虜になった。ちょうど袁紹と曹操が戦っている最中であったが、曹操は関羽の武勇に惚れ込んでおり、どうしても関羽を手元に残したいと思ったが、功を立てると必ずや劉備のもとに戻ると考え、様々な贈り物をしたが、関羽はこれらを蔵に収めて封印してしまった。白馬の戦いでは、敵将の顔良を大軍の真っ只中で討ち取り、その功績を置き土産にして、袁紹の下にいる劉備の下へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。

赤壁の戦いの後、劉備が益州を攻略すると、関羽は荊州の守備を任され、魏・呉に睨みを効かせていた。彼の荊州の統治ぶりは、呉志『陸遜伝』によれば、恩得と威信が行き渡っていたものであったようだ。しかし関羽は部下には優しいが、同格の士大夫を見下すという悪い癖があり、このことが後に彼自身の災いを招くこととなる(関羽は庶人から成り上がっており、もともと士大夫より低い身分だった。反対に張飛は部下には苛酷だが、士大夫は尊敬するという性格であった)。

215年に、呉の魯粛・呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、関羽は三万の兵を率いて益陽に布陣。劉備も大軍を率いて関羽の助成に駆けつけ、一時は蜀呉同盟の崩壊の危機に至った。だが、関羽と通じた長沙の安成、攸、茶陵の三県、揚州廬陵の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、続けて中郎将の袁龍・安成の長呉碭が反乱を起こしたこと、さらにこの年、曹操が大軍を率いて漢中の張魯を攻撃したこと、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した。結果、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は呉領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が蜀領となった。

219年、劉備が漢中王を称し、関羽は前将軍・仮節に任じられた。この年、関羽は水陸両軍を率い、息子の関平、都督の趙累らとともに樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍を率いた于禁が駆けつけるが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没。関羽は船団を率いて攻撃をかけ、于禁を降伏させ、、龐徳を斬った。また、このとき魏の荊州刺史・胡修、南郷太守・傅方らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、魏領内の群盗などが一斉に蜂起。魏丞相掾・魏諷までもが関羽に通じて反逆を起こし、中原は震動。曹操は遷都まで考えたほどであった。だがそれより前、呉の孫権から関羽の娘に婚姻の申し入れがあったとき、関羽は「虎の娘を犬の子にはやらん」と言って断り、孫権を怒らせたことがあった。曹操の部下、司馬懿は関羽と孫権の仲が悪くなったことを見計らって呉と同盟を結んだ。これで逆に魏と呉の軍に挟撃されてしまう事になる。さらに孫権は、関羽に不満を持っていた麋芳と傅士仁に誘いをかけ寝返らせた。一方の魏も徐晃を派遣して曹仁を救援させた。関羽は結局勝利を得ることができず敗走した。さらに荊州の江陵城を孫権に奪われ、ついに臨沮で関羽と関平は退路を断たれ、呂蒙、陸遜の策をもって潘璋の部下・馬忠の罠により捕らえられ、孫権により処刑された。一説では、孫権は関羽の武勇を惜しみ、部下として使いたいと願ったが、側近にたしなめられたとされている。

関羽の首は、孫権の使者によって曹操のもとへ送られ、曹操は諸侯の礼をもって彼を葬った。 曹操によるこの処置は異例の事であった。

関羽を殺された劉備は怒りのあまり、呉に対して夷陵の戦いを起こし、大敗を喫した。

260年、蜀漢より壮穆侯の諡号を送られた。

関羽の子孫は、蜀が滅んだ後、龐徳の子・龐会によって根絶やしにされた。

[編集]
その人物
武を誇る一方で、学問を好み、『春秋左氏伝』を諳んじるなど文武両道の面を持っていた。また敵方でありながら張遼、徐晃とは親交があり、彼らとは互いに尊敬しあっていた。 同時代の人々からは関羽の武勇は張飛と並んで一万の敵に相当するといわれているが、一方では、「自分の勇名を恃んで猪突猛進してしばしば兵を失う」(蜀書『 廖立伝』)という批判もあった。

三国志を著した陳寿は、正史・関羽伝の最後に張飛の人物評と併せてこのように記述している。 「関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。世の理とは、こういうものなのだろう」(「関羽張飛皆称万人之敵、為世虎臣。羽報效曹公、飛義釈厳顔。並有国士之風。然羽剛而自矜、飛暴而無恩、以短敢敗。理数之常也」『蜀志・関羽伝』)

[編集]
三国志演義では
『三国志演義』では、関羽は青龍偃月刀と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っていた。主人公的存在だけあって、史実に比べ、活躍は非常に華々しいものとなっている。講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられていると思われる。

たとえば、董卓配下の猛将、華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話。袁紹軍の顔良のみならず、その同僚、文醜をも討ち取った話。曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に見とがめられて、6人の将軍を斬り殺して突破した話。赤壁の戦い後、敗走する曹操軍を華容道で待ち伏せするが、検問突破を不問に付した恩義を衝かれ、見逃した話。孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話など、全て創作である。

また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子である。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっていた様である。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承で実在しない人物だと言われている。

死後は呂蒙を呪い殺したとされるが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除される事もある。

呂蒙を呪い殺したとされる内容は孫権は祝宴をひらいて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に 親しく杯を渡し、呂蒙は恭しく杯を受け取ったが突然杯を地面に叩きつけるなり孫権の胸倉を掴んで押し倒し「我こそは関羽なるぞ。」と大喝した。一同が顔色を変えて平伏すると呂蒙はばったりと倒れて血を吐いて死んだという。関羽の魂が乗り移ったと言われている。

関羽が呉に斬首された後に、玉泉山の普浄という僧の前に関羽の霊と同じくして死んだ関平と周倉と家臣の霊とともに現れ呉や呂蒙に対する恨みを綴ったが、普浄の説得により成仏するという話もある。

[編集]
常平郷での伝説
以下、今泉恂之介『関羽伝』(新潮社 新潮選書2000年 ISBN 4-10-600595-6)による。

山西省の研究家の間では、関羽の生年を160年とする説が有力である(『三国志演義』では162年が生年)。元の姓は管、馮、常、柁、封など諸説あるが不明。生家は鍛冶屋、木こり、豆腐売りなど諸説あるが、いずれにせよ下層階級(庶人)の出であるという。家業に励む一方、『春秋左氏伝』に親しむなど勉学にも励み、文武に優れた若者として一目置かれていた。177年、胡氏と結婚し、178年、長男の関平が生まれた。

黄巾の乱のころ、塩商人の呂熊は、呂布と結託して、暴利をむさぼっていた。常平村では干魃が続き、飲み水にも欠くありさまだった。呂熊のような富裕な者は深井戸を持ち、水を自給していた。村人が呂熊に水を求めると、呂熊は若い女性を汲みに来させ、次々と手込めにした。しかし村人たちは逆らえなかった。一人の美女が呂熊に逆らい、逃れられぬと知って自殺した。関羽はこれを聞くと、ある日刀を帯びて呂熊の自宅に乗り込み、呂熊と一族郎党を誅殺した。関羽が故郷を去ったのはこのためという。両親は関羽の行動を義によるものと認めたが、逃亡に同行して足手まといになるよりはと自殺した。関羽は官吏に追われて各地を放浪し、また、この時初めて関羽と名乗った。

188年、幽州の涿(たく)郡で劉備・張飛と出会ったという。この後劉備の元で義勇軍を結成し、黄巾軍と戦った。時期的には張角は既に病死しており、黄巾軍の残党と戦っていたことになる。


------------------
 丑娃娃挽泪 写在 三国志演義 | [回去]

 
 

 
 

 ◎一共有 篇回复。

 
 

  {CommentContent}

::{CommentAuthor}{CommentUrl
{CommentTime}