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劉備[2006222|8:19]

 
 

劉備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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劉備(りゅう び 161年 - 223年、在位221年 - 223年)は、中国、後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝。 字は、玄徳(げんとく)。諡号は、昭烈帝(しょうれつてい)。黄巾の乱以後の混乱の中で関羽・張飛などを従えて頭角をあらわし、諸葛亮の補佐を得て蜀を建国した。

『三国志』中の伝では、諡号の昭烈帝ではなく、先主と呼ばれている。(二代目劉禅は後主)これは『三国志』が正統としているのは魏であるので、正統ではない劉備を皇帝としては認めないゆえである。ただし『三国志』の著者陳寿は蜀の遺臣であったので、呉の歴代皇帝が「呉主権」などと諱をそのまま使っているのに比べて、敬意を表されている。子に後継者の劉禅の他、劉永・劉理がいる。また、劉封を養子にしていた。

目次 [非表示]
1 系譜に付いて
2 史実の劉備
2.1 若き日
2.2 決起
2.3 流浪
2.4 三顧の礼
2.5 天下三分
2.6 三国争覇
2.7 夷陵の戦い
2.8 評と子孫
3 三国志演義の劉備
4 参考書籍



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系譜に付いて
劉備は自ら前漢第六代皇帝景帝の子・中山靖王劉勝の末裔と主張していた。劉勝は劉貞を初め、孫も含めて120人以上の子を残しており、劉備の直接の祖とされる劉貞は、紀元前112年年始あたりに涿郡涿県の侯としての漢朝への上納金がなかったために、叔父の武帝の逆鱗に触れてしまい、侯の地位を取り上げられそのまま涿に住居していたという。そのため系図もそこで止まっており、劉備との系図の繋がりを確認することは出来ない。

その一方で当時の後漢では、前漢以来の歴代皇帝の末裔に関しては幅広い税の減免が認められていたため、一般の住民が勝手に劉姓を名乗る事は困難であったとも言われており、単純に劉備の主張を嘘と決め付ける事も出来ない。

また中山王の末裔は中山国を初め、涿郡や常山郡などに拡がっていたと思われる。仮に劉備が中山王の末裔だとしても、あまり価値はなく劉備同様に没落して庶民同様に零落した家は珍しくなかったと思われる。

なお、『三国志演義』では献帝の前で、劉貞から劉雄までの間の13代を読み上げられるシーンが書かれているがもちろん創作である。

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史実の劉備
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若き日
涿(たく)郡涿県(現河北省涿県)の出身で、祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり最終的には東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備が若い頃に死んだために劉備の家は貧しくなり、母と共に筵を織って生活していた。

劉備は背が七尺五寸(172.5cm)身体的な特徴として腕が膝に届くまであり、耳が非常に大きく自分の耳を見ることが出来たと言う。

15歳の時に叔父の劉元起の援助で廬植の下で学問を学ぶようになる。この時の同窓に公孫瓚がおり、大変仲が良く、劉備は公孫瓚に対して兄事していた。

しかし劉備はあまり真面目な学生ではなく、勉学よりも、乗馬や闘犬を好み、仲間達の中でも見栄えがある服装で身を包んだ。男伊達を気取り豪侠と好んで交わりを結び、劉備の周囲には人が集まるようになった。中山の豪商張世平・蘇双とは馬を商って諸国を回っていたが、劉備を見て只者ではないと思い、大金を与えた。劉備はこの金で人数を集めてその頭目となっていた。

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決起
黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛・簡雍らと共に義勇軍を結成し名を上げた。その功により安熹県の尉(警察)に任命されたが、郡の督郵が公務で安熹にやって来た際、劉備が面会を求めたが断られた。これに腹を立てて督郵を襲撃し、柱に縛り付けて杖(じょう)で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけ、官を捨てて逃亡した。

その後、公孫瓚の元へ身を寄せ、公孫瓚から別部司馬とされ、青州刺史の田楷と共に(とあるが、刺史の田楷と県令程度の劉備が共にというのはおかしい)袁紹軍と戦って戦功を上げたので、公孫瓚は劉備を仮に平原の県令(県長官)にして、その後(県副長官)とした。この頃に平原の地元の人間より刺客を送られるが、その刺客を刺客と知らず厚くもてなしたので刺客は劉備を殺すのが忍びなくなって、自らの任務を劉備に告げて帰ってしまった。

その頃、徐州の陶謙が曹操に攻められて田楷に救援を求めてきたので、田楷と劉備は陶謙の元へと向かい、劉備は田楷の元を離れて陶謙に身を寄せるようになった。

曹操は本拠地が呂布に奪われたために撤退し、陶謙は命拾いをした。その後、陶謙は病が重くなり、徐州を劉備に託そうとしていた。劉備は初めは断ったものの陳登・孔融らの説得を受けて徐州を領した。

この時に曹操に敗北した呂布が徐州へやってきたのでこれを迎え入れた。その後、袁術が攻めてきたのでこれと対峙し、一ヶ月が経過した頃、下邳の守将の曹豹が裏切って呂布を城内に迎え入れ、劉備の妻子は囚われてしまった。劉備は徐州へ帰って呂布と和睦し、自らは小沛へと移った。

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流浪
しかしここで兵を集めたことを呂布が不快に思い、攻めてきたので逃亡し、曹操の元へ身を寄せ、再び小沛に入った。更に呂布が攻めてきたので曹操は援軍に夏侯惇を派遣したが、呂布の部下高順に撃破され、劉備の妻子は再び捕虜となった。曹操は自ら出陣して呂布を攻めてこれを生け捕りにした。曹操は呂布が将軍として有能なので殺すのを少し躊躇ったが、劉備は呂布が丁原と董卓を殺したことを挙げて諌めた。これを聞いた呂布は劉備に「こいつの方が信用ならない!」とののしった。

劉備は曹操に連れられて曹操の根拠地で献帝のいる許へ入った。ここでの劉備に対する曹操の歓待振りは、車を出すときには常に同じ車を使い、席に座るときには席を同格にすると言う異例のものであった。

この頃、宮中では董承が献帝よりの密詔を受けての曹操討伐計画が練られており、その同士に劉備が引き込まれた。あるときに曹操と歓談していたときに曹操より「天下に英雄といえばあなたと私だけだ。袁紹などでは不足だよ。」と評されている。その後、討伐計画に対して具体的な行動を起こさぬうちに朱霊、路招らと共に袁術討伐に赴くが、袁術が途中で死去して空振りに終わる。

劉備は朱霊たちが帰還した後に、下邳の守将車冑を殺して、徐州を領有し、下邳の守備を関羽に任せて自らは小沛に移った。曹操と敵対することになったので孫乾を派遣して袁紹と同盟し、曹操が送ってきた劉岱、王忠の両将を破った。

しかし曹操自身が攻めてくると敵し得ず、袁紹の元へと逃げ、関羽は劉備の妻子と共に曹操に囚われる。

袁紹の長子袁譚はかつて劉備が茂才(郷挙里選の科目)に推挙したので、その縁で袁紹の元へ身を寄せて大いに歓待された。袁紹が曹操と官渡でにらみ合っている時に、汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に対して反旗を翻したので劉備はこれに合流して曹操の後背地を荒らしまわった。この時に関羽が曹操の元から逃げ出して劉備のところへ帰ってきた。

その後、曹仁により撃破されて袁紹の所へ帰るが、最早袁紹の元から離れたいと考えて荊州の劉表に袁紹との同盟を説いてくると偽ってそのまま劉表の元へと身を寄せた。

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三顧の礼
劉表から新野城(現河南省新野)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇、于禁の軍を博望にて撃破した。しかし劉備の元に集まる人が増えたことで劉表は劉備を猜疑するようになり、曹操が烏丸を討伐に行った隙をついて許を襲撃するように劉表に進言したが、これは受け入れられなかった。この時期のエピソードとして裴松之の『九州春秋』からの引用で「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた。」と言う話がある。このことから髀肉之嘆の言う故事成語が生まれた。

この頃、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操・孫権に対抗するためにはこの荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割してその一つの主となるべしという天下三分の計を説かれた。

劉表が没し、劉表の後を継いだ劉琮が曹操に降伏した。このときに諸葛亮より劉琮を討って荊州を奪ってしまえと薦められたが「忍びない」と言って断り、逃亡した。そうすると周辺の住民十数万が劉備に付いてきてしまい、その歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍に追いつかれそうであった。諸葛亮が住民を捨てて早く行軍するべきだと劉備に薦めたが再び「忍びない」と言って住民と共に行軍を続けた。

しかし曹操の軽騎兵隊に追いつかれると狼狽して妻子・民衆たちを置いて逃亡し、関羽の軍と合流したことで安堵を得る。更に劉琦の軍と合流し、孫権陣営から様子見に派遣されてきた魯粛を媒介にして孫権の元へ諸葛亮を派遣して同盟を結び、赤壁の戦いにおいて、曹操軍を破った。

赤壁の戦いの後、劉備は荊州を占拠し、最初は劉表の長子劉琦を傀儡として上表して荊州刺史に建て、荊州の南の四郡(武陵、長沙、桂陽、零陵)を併合した。その後程なくして劉琦が死去したために自ら荊州牧となった。劉備の勢力拡大を憂慮した孫権は自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきた。しかし劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断った。

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天下三分
211年、蜀の主である劉璋が五斗米道の張魯に対抗するために劉備の兵を益州に入れて欲しいと申し出てきた。所がこのときの使者にされていた法正とその同士張松は既に劉璋を見限っており、劉備に対して蜀を獲ってしまえと薦めた。諸葛亮らもこの話にのるように薦め、劉備もこれを入れた。

関羽・張飛・諸葛亮らを留守に残し、劉備は自ら龐統・黄忠・法正などを引き連れて蜀へ赴いた。蜀に入ると劉璋によって歓待を受け、宴が開かれた。龐統はこの機会に劉璋を捕らえて一気に蜀を手に入れるように進言したが、劉備は退けた。

その後、劉備は兵を率いて前線の葭萌へ駐屯し、この地で張魯を討伐するよりも住民たちの人心を収攬することに勤め、来たるべく蜀占領に向けて準備を整えた。212年、曹操が孫権を攻め、劉備に対して救援要請が来た。劉備たちはこれを兵力移動の隠れ蓑にして劉璋から付けられた監視役の二人の将軍を殺して、蜀の首都成都へと向けて侵攻を始めた。

初めは順調に進んでいたものの雒城(らく、雒は各隹)にて頑強な抵抗に合い、一年もの長い包囲戦を行わざるを得なかった。この戦闘中に龐統が流れ矢に当たって死去し、援軍として急ぎ諸葛亮・張飛・趙雲らが駆けつけて雒を落とすことに成功し、更に成都を包囲。劉璋は降伏した。

これにより天下三分の形勢が定まった。

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三国争覇
蜀を獲って安定した地盤を得た劉備であったが、それは孫権勢力からの嫉視を買うことになる。元々赤壁の際に主要な活躍をしたのは孫権軍であって、その戦果たる荊州は孫権軍が獲るべきと考えられていた。しかし劉備にある程度の勢力すなわち荊州を与えて曹操に当たらせるという構想の元に荊州は劉備のものとなっていたのである。

215年、劉備が蜀を手に入れたことで孫権は荊州を返すようにといってきたが、劉備は「涼州を手に入れたら返します」と答えた。涼州は蜀の遥か北であり、劉備がこれを獲ることはその時点で不可能に近く、返すつもりが無いと言ったも同然であった。これに怒った孫権は呂蒙を派遣して荊州を襲わせ、両者は戦闘状態に入る。

しかしその頃、張魯が曹操に降伏して益州と雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方は曹操の手に入った。このことに危機感を抱いた劉備たちは荊州の南三郡を割譲することで孫権と和解し、漢中の攻略を目標とすることになった。

218年、自ら軍を率いて漢中の夏侯淵・[[張コウ|]]を攻め、翌年に黄忠の活躍により夏侯淵を切って漢中を占領する。その後、曹操の軍が奪還すべく攻めてきたが、篭城によりこれを撃退した。

漢中を手に入れた劉備は曹操が216年に魏王になっていたことを受けて、219年劉備は漢中王を自称した。漢の高祖が漢中王を称した故事に倣ったものである。

一方、東では荊州を奪還するべく呂蒙たちが策を練っており、関羽が曹操軍の曹仁を攻めている間に荊州本拠を襲い、孤立した関羽を捕らえてこれを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなる。

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夷陵の戦い
220年に曹操の子曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受ける。これに対抗して221年に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀に作られた漢王朝であるため、後漢(東漢)、前漢(西漢)と区別するため蜀漢とも言う。

しかし劉備は旗揚げ以来の部下であり、兄弟同然であった関羽を失った悲しみに満ちており、孫権に対する復讐戦を企図した。これに対して趙雲を初めとした多くの人間がこれを諌めたが、劉備は聞こうとしなかった。更にこの戦争準備中に張飛が部下に殺されるという事件が起きる。

蜀の親征軍は快進撃を続けるが、これは孫権軍の総大将陸遜の相手を深く攻め入らせ、隊列が長くなった所で逆撃すると言う策戦であった。蜀軍は陸遜率いる軍に惨敗、劉備は白帝城に逃げ込みここを永安と改称した。

ここで劉備は病を発し、病床に臥せってしまう。そこで劉備は諸葛亮を呼び寄せ「君の才能は魏の曹丕に十倍する。きっと国を安定をもたらし、統一を果たしてくれ。もしわが子劉禅が補佐するに足りないと思ったら、君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」と言い残し、劉禅に対しては「悪事はどんな小さなことでも行ってはいけない。善事はどんな小さなことでもこれを行え。お前の父は徳が薄く、これを見習ってはいけない。『漢書』・『礼記』を読んで勉強せよ。丞相(諸葛亮)を父と思って仕えよ。」と言い残して死去した。享年63。

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評と子孫
陳寿の評。「先主は情に厚く人望があり、人物を良く見極め、士を持て成した。漢高祖(劉邦)に通じるものがあり、英雄の器の持ち主であった。遺児と国を諸葛亮に託してなんら疑いを持たなかったのは古今の盛時である。」と。

ちなみに劉備の子孫は永嘉年間の八王の乱により劉禅の子孫は根絶やしにされ劉永の孫である劉玄のみ生き残った。彼はチベット系氐族の一派である巴氐の酋長の李雄が蜀で建国した成蜀に頼ったという。現在、劉備の子孫が中国の漁山郷という村にいるとされている。他にも曹操、孫権、諸葛亮の子孫が残った村が現在の中国各地に現存し、観光地となっている。

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三国志演義の劉備
『三国志演義』の中の劉備は、儒教的な道徳を体現するような君子として描かれている。

演義では、『雌雄一対の剣』・『的盧』を愛用している。

桃園結義は架空の出来事であるとされるが、劉備が関羽、張飛を兄弟のように遇したと、正史の三国志にも3人の仲について記述がある。

曹操に追われている時に逃げ込んだ家で劉備にもてなす食料がないとのことで、その家の主人の劉安が妻を殺害しその肉を差し出す。それに感動した劉備はその主人の劉安を後年に高官にした(もしくはその家の主人の息子を養子(劉封)にした)と描かれている。


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