「随分伸びたね」
投げ出されるように伸びた白い、華奢な指先を手に取ると、シーツに埋められていた紅い瞳が微かに上がる。
「ホラ、この爪」
蔵馬は、鋭く尖ったその先にほんの少し固まった血の色を見つけて、飛影の前に翳した。
飛影は興味なさ気にそれを見る。
「また切らないといけないね」
けれど、細い指先を1本1本丹念に調べるように触れながら蔵馬が呟くと、面倒くさ気にその手を振り払った。
「くだらん、そんなことをする必要はない」
言い捨ててそのまま眠りに就こうとシーツを引き上げる飛影を、払われた手で抱き込みながら、蔵馬は冗談めかした口調で覗き込む。
「そういうわけにはいかないよ。ほら、これ」
そう言って白い肩に残った紅い疵を指差した。
「この爪が伸びてると、ね」
言われてみれば、そのカタチには見覚えがあった。
「さっきも思いっきり引っ掻いてくれたよね」
唇の端を引き上げて、蔵馬は先の行為を思い出させるように艶然と微笑う。
「こういう疵はなかなか消えないって知ってる?」
「そんなもの妖力で消せばいいだろうが。どうせ治療はお前のお得意だろう」
夜気に晒された蔵馬の背中には、微かに消え残った同じカタチの疵と今夜新たに増えた同じ疵。消える前に増えていくそれを暗に仄めかした言葉にも飛影の返事はにべもない。
「それも勿体ないしねぇ」
「ならば文句を言うな」
クスクス笑いながら言われた言葉を、飛影は白々しいとばかりに切り捨てる。
どちらも、さして気合いの入った言い合いではない。行為の後の、猫のじゃれあいにも似た些細な言葉遊び。疵を舐めあうのではなく、痛みを感じるギリギリのところに触れていく。時折、ザックリと抉りあうこともあるけれど、それくらいの方が面白みがあって良い。
そうして、相手の血の付いた唇でまた口接けを交わすのだ。その方が、甘い睦言なんかより、余程自分達に似合いだと、お互いに知っている。
蔵馬は、シーツから覗く飛影の思いの外柔らかい髪に顔を寄せた。
「でも、苦労するんだよ。言い訳に」
ささやかな戯れの中で、これだけは微かに本気を滲ませて蔵馬は苦笑を漏らす。
「言い訳?」
飛影は首筋に零れ落ちてくる長い髪を、邪険に払いながら聞き返した。
「言い訳をしなければならないようなことをしている訳か?」
「真面目な優等生で通っているもんで、ね」
「真面目な、ね」
蔵馬の言葉を鼻で嗤った飛影は、彼の瞳が意地悪げに光ったのに気付かなかった。
「そう。だから、今年の夏は肩を出せなかったんだよ。優等生の俺がこんな疵をつくっていると皆が驚くだろうからね。クラスメイトや、先生や‥‥‥母さんが」
最後の言葉を口にした瞬間、飛影の身体が微かに強ばった。それはほんの僅かなものだったけれど、細い肢体を抱き込むように重なっていた蔵馬にははっきりと伝わる。
「どうかした?」
その反応に満足げな笑みを浮かべながら答えの分かり切った問いを投げる。我ながら、少し意地が悪いかな、と思いつつ。
「別にっ!」
蔵馬のそんな様子が伝わったのか、抱きすくめられたままの飛影は、腹立たしげな声で吐き捨てた。
蔵馬が母親のことを気に掛けるのを、飛影が気にくわないと思っているのは知っている。自分以上に特別の存在を、蔵馬がその内に持つことが許せないのだ。
(自分だって雪菜ちゃんのことになれば目の色が変わるくせにねぇ)
だから蔵馬は、時折こうしてわざと母親の存在を口に上らせる。
独占欲は、示される側からすれば、口当たりの良い美酒のようなものだ。それが意識されたものであれ、無意識のものであれ、軽い痺れを伴った心地よさが染みとおっていく。
ただし、切り上げるタイミングは見極めなければならないけれど。
案の定、意地になった背中が蔵馬を拒絶している。それでも、腕の中から逃れようとはしないところを見ると、まだ完全に臍を曲げたという訳でもないようだ。
ここらが引き時と、蔵馬は飛影の懐柔にかかる。抱き締めた腕はそのままに、もう一方の手で優しく髪に触れてやる。獣の毛繕いのように、優しく、幾度も。この小さな妖怪がこんなことを好むと知ったのは、いつのことだったろう。
やがて、飛影の身体から余分な力が抜けていった。
「飛影が好きだよ」
「‥‥‥‥」
「誰よりも‥、飛影が、一番‥‥大事」
「‥‥‥‥」
「だから好きなだけ疵をつけてもいいよ。俺が君にキスするのと同じだけ、爪を立てて構わない」
「‥‥言い訳が大変なんじゃなかったのか?」
「それよりも飛影の方が大事」
繰り返される甘い睦言と、きっぱりと言いきられた言葉に、飛影は返す言葉をなくしてか黙り込む。心なしか、腕の中の体温が上がったような気がした。
先のような、刺を含んだやりとりは平気な癖に、甘い台詞にはどう対応して良いのか分からない彼は、こんな時いつも黙り込むのが常である。そうして、飛影が言葉をなくしている内に、巧く丸め込むのが蔵馬のいつもの手だったのだが、今夜は少しばかり違った。
「飛影‥‥‥」
「――――か?」
「え?何、飛影?」
蔵馬が言葉を続ける前に、ぽつりと零れた声に訝しげに尋き返すと、胸元に埋めていた顔を上げ、飛影は唇の端を微かに引き上げて蔵馬の瞳を見つめた。
「好きなだけ疵を付けていいわけか?」
「‥‥どうぞ、お好きなように。でも、まぁ、お手柔らかに願うよ」
何か企み事をしているような目付を内心警戒しつつ、表面上穏やかに蔵馬は微笑って答えた。まさか、許可がでたとばかりに、故意に背中を疵だらけにはしないだろうが、断言は出来ない。
さっきあんまり飛影を刺激するんじゃなかったかな、と苦笑しながら少しだけ後悔する。
けれど、飛影はいつもはキツイ瞳を面白気に歪めたまま、蔵馬の肩口にそっと小さな唇を寄せた。柔らかな感触が疵の上を滑る。
「お前の言い分を聞いてると、俺だけがそうしたがってるみたいだな」
「え?」
「疵を残したいのはお前の方じゃないのか?」
「‥‥‥‥」
「こうして、俺が残す疵を消えて欲しくないと思ってるいるのは、お前だろう?」
蔵馬の肌に残る紅い疵痕をゆっくりと辿るように指を這わせながら、蠱惑的な笑みを昇らせる。
「それに、お前だって俺に疵をつけてるだろう?」
違うか?というように紅い瞳が蔵馬を見つめる。
互いに疵つけあって、相手の中に己を刻みつける。目に見える疵。目に見えない疵。心の奥まで、魂の底まで、どこまで深く己の存在を相手に刻み込めるのか。競い合うように、補いあうように、血の匂いのする抱擁。
「違うのか?」
魅入られたように―――
今度言葉をなくしたのは蔵馬の方だった。
誘うように薄く開かれた唇が、声はなく言葉を綴る。引き寄せられるように蔵馬は唇を重ねた。
甘い魔の誘惑は、堕落した天上の快楽。
漆黒の髪も、血色の瞳も、その存在の全てがどこまでも闇に属するものであるのに。
目も眩む、真昼の太陽のように。
白く弾ける視界に、紅い唇が蔵馬の名を呼んだ。
風の中を落ちていく羽根のように、もつれあいシーツに崩れ落ちていく二つの影。
爪が肌を切り裂き、新たな疵を作る。
微かに漂う血の匂いの中、白い太陽が過ぎてゆく。
白い太陽が過ぎ去ってゆく中で、紅い唇が白い脳を染めていく。
投げ出されるように伸びた白い、華奢な指先を手に取ると、シーツに埋められていた紅い瞳が微かに上がる。
「ホラ、この爪」
蔵馬は、鋭く尖ったその先にほんの少し固まった血の色を見つけて、飛影の前に翳した。
飛影は興味なさ気にそれを見る。
「また切らないといけないね」
けれど、細い指先を1本1本丹念に調べるように触れながら蔵馬が呟くと、面倒くさ気にその手を振り払った。
「くだらん、そんなことをする必要はない」
言い捨ててそのまま眠りに就こうとシーツを引き上げる飛影を、払われた手で抱き込みながら、蔵馬は冗談めかした口調で覗き込む。
「そういうわけにはいかないよ。ほら、これ」
そう言って白い肩に残った紅い疵を指差した。
「この爪が伸びてると、ね」
言われてみれば、そのカタチには見覚えがあった。
「さっきも思いっきり引っ掻いてくれたよね」
唇の端を引き上げて、蔵馬は先の行為を思い出させるように艶然と微笑う。
「こういう疵はなかなか消えないって知ってる?」
「そんなもの妖力で消せばいいだろうが。どうせ治療はお前のお得意だろう」
夜気に晒された蔵馬の背中には、微かに消え残った同じカタチの疵と今夜新たに増えた同じ疵。消える前に増えていくそれを暗に仄めかした言葉にも飛影の返事はにべもない。
「それも勿体ないしねぇ」
「ならば文句を言うな」
クスクス笑いながら言われた言葉を、飛影は白々しいとばかりに切り捨てる。
どちらも、さして気合いの入った言い合いではない。行為の後の、猫のじゃれあいにも似た些細な言葉遊び。疵を舐めあうのではなく、痛みを感じるギリギリのところに触れていく。時折、ザックリと抉りあうこともあるけれど、それくらいの方が面白みがあって良い。
そうして、相手の血の付いた唇でまた口接けを交わすのだ。その方が、甘い睦言なんかより、余程自分達に似合いだと、お互いに知っている。
蔵馬は、シーツから覗く飛影の思いの外柔らかい髪に顔を寄せた。
「でも、苦労するんだよ。言い訳に」
ささやかな戯れの中で、これだけは微かに本気を滲ませて蔵馬は苦笑を漏らす。
「言い訳?」
飛影は首筋に零れ落ちてくる長い髪を、邪険に払いながら聞き返した。
「言い訳をしなければならないようなことをしている訳か?」
「真面目な優等生で通っているもんで、ね」
「真面目な、ね」
蔵馬の言葉を鼻で嗤った飛影は、彼の瞳が意地悪げに光ったのに気付かなかった。
「そう。だから、今年の夏は肩を出せなかったんだよ。優等生の俺がこんな疵をつくっていると皆が驚くだろうからね。クラスメイトや、先生や‥‥‥母さんが」
最後の言葉を口にした瞬間、飛影の身体が微かに強ばった。それはほんの僅かなものだったけれど、細い肢体を抱き込むように重なっていた蔵馬にははっきりと伝わる。
「どうかした?」
その反応に満足げな笑みを浮かべながら答えの分かり切った問いを投げる。我ながら、少し意地が悪いかな、と思いつつ。
「別にっ!」
蔵馬のそんな様子が伝わったのか、抱きすくめられたままの飛影は、腹立たしげな声で吐き捨てた。
蔵馬が母親のことを気に掛けるのを、飛影が気にくわないと思っているのは知っている。自分以上に特別の存在を、蔵馬がその内に持つことが許せないのだ。
(自分だって雪菜ちゃんのことになれば目の色が変わるくせにねぇ)
だから蔵馬は、時折こうしてわざと母親の存在を口に上らせる。
独占欲は、示される側からすれば、口当たりの良い美酒のようなものだ。それが意識されたものであれ、無意識のものであれ、軽い痺れを伴った心地よさが染みとおっていく。
ただし、切り上げるタイミングは見極めなければならないけれど。
案の定、意地になった背中が蔵馬を拒絶している。それでも、腕の中から逃れようとはしないところを見ると、まだ完全に臍を曲げたという訳でもないようだ。
ここらが引き時と、蔵馬は飛影の懐柔にかかる。抱き締めた腕はそのままに、もう一方の手で優しく髪に触れてやる。獣の毛繕いのように、優しく、幾度も。この小さな妖怪がこんなことを好むと知ったのは、いつのことだったろう。
やがて、飛影の身体から余分な力が抜けていった。
「飛影が好きだよ」
「‥‥‥‥」
「誰よりも‥、飛影が、一番‥‥大事」
「‥‥‥‥」
「だから好きなだけ疵をつけてもいいよ。俺が君にキスするのと同じだけ、爪を立てて構わない」
「‥‥言い訳が大変なんじゃなかったのか?」
「それよりも飛影の方が大事」
繰り返される甘い睦言と、きっぱりと言いきられた言葉に、飛影は返す言葉をなくしてか黙り込む。心なしか、腕の中の体温が上がったような気がした。
先のような、刺を含んだやりとりは平気な癖に、甘い台詞にはどう対応して良いのか分からない彼は、こんな時いつも黙り込むのが常である。そうして、飛影が言葉をなくしている内に、巧く丸め込むのが蔵馬のいつもの手だったのだが、今夜は少しばかり違った。
「飛影‥‥‥」
「――――か?」
「え?何、飛影?」
蔵馬が言葉を続ける前に、ぽつりと零れた声に訝しげに尋き返すと、胸元に埋めていた顔を上げ、飛影は唇の端を微かに引き上げて蔵馬の瞳を見つめた。
「好きなだけ疵を付けていいわけか?」
「‥‥どうぞ、お好きなように。でも、まぁ、お手柔らかに願うよ」
何か企み事をしているような目付を内心警戒しつつ、表面上穏やかに蔵馬は微笑って答えた。まさか、許可がでたとばかりに、故意に背中を疵だらけにはしないだろうが、断言は出来ない。
さっきあんまり飛影を刺激するんじゃなかったかな、と苦笑しながら少しだけ後悔する。
けれど、飛影はいつもはキツイ瞳を面白気に歪めたまま、蔵馬の肩口にそっと小さな唇を寄せた。柔らかな感触が疵の上を滑る。
「お前の言い分を聞いてると、俺だけがそうしたがってるみたいだな」
「え?」
「疵を残したいのはお前の方じゃないのか?」
「‥‥‥‥」
「こうして、俺が残す疵を消えて欲しくないと思ってるいるのは、お前だろう?」
蔵馬の肌に残る紅い疵痕をゆっくりと辿るように指を這わせながら、蠱惑的な笑みを昇らせる。
「それに、お前だって俺に疵をつけてるだろう?」
違うか?というように紅い瞳が蔵馬を見つめる。
互いに疵つけあって、相手の中に己を刻みつける。目に見える疵。目に見えない疵。心の奥まで、魂の底まで、どこまで深く己の存在を相手に刻み込めるのか。競い合うように、補いあうように、血の匂いのする抱擁。
「違うのか?」
魅入られたように―――
今度言葉をなくしたのは蔵馬の方だった。
誘うように薄く開かれた唇が、声はなく言葉を綴る。引き寄せられるように蔵馬は唇を重ねた。
甘い魔の誘惑は、堕落した天上の快楽。
漆黒の髪も、血色の瞳も、その存在の全てがどこまでも闇に属するものであるのに。
目も眩む、真昼の太陽のように。
白く弾ける視界に、紅い唇が蔵馬の名を呼んだ。
風の中を落ちていく羽根のように、もつれあいシーツに崩れ落ちていく二つの影。
爪が肌を切り裂き、新たな疵を作る。
微かに漂う血の匂いの中、白い太陽が過ぎてゆく。
白い太陽が過ぎ去ってゆく中で、紅い唇が白い脳を染めていく。
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