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諸葛 亮(しょかつ りょう、ピンイン: Zhūge Liàng、181年 - 234年 8月23日)は、中国後漢末期から三国時代の蜀の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀の建国者である劉備の創業を助け、その子である二代目劉禅を丞相としてよく補佐した。
伏竜、臥竜とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子には蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻、同母兄に呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪や同母弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、従父(叔父)に豫章太守の諸葛玄。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛原(景春)らがいる。彼の孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。子孫たちは諸葛八卦村という村に今も生き続けている。
略伝 [編集] 書生時代 琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが出生地は不明。身長は、8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)もあった。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉(首都圏長官)の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人だが、孔明が幼い時に死去している。正母の章氏も同様に幼い時に死去しているが父の諸葛珪が妻の死去後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均がいる。他に妹がいる。『呉志』「諸葛瑾伝」の注釈に「諸葛氏は元は葛氏であったが、陽都に移り住んだ際に現地に既に葛氏がいたために諸葛氏と呼ばれるようになった。」という話を載せている。
まだ幼い頃徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時期に起こった曹操による徐州での大虐殺が原因かとも考えられる。後に呉の重臣となる兄の諸葛瑾と継母の宋氏はこの頃に別れたと思われる。
この時の行き先については『三国志』の内、陳寿の本文では従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷から朱皓(朱儁の子)が豫章太守として送られて来て、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。
これに対して裴松之注に「『献帝春秋』曰く」と言い、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので、劉表が代わりに諸葛玄を任命し、朝廷からは病死した周術の代わりに朱皓を送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが途中で民衆の反乱に逢い、首にされて劉繇に送られたとなっている。
諸葛玄が敗れた後に劉表を頼るのだから最初から劉表の元にいたと考えるのが自然ではあるが、豫章は現在の江西省南昌であり、劉表の根拠地である荊州襄陽(湖北省襄樊)からはかなり遠く、そこの太守を劉表が任命したとするのは無理がある。何故、敗れた後に袁術を頼らなかったのかと言えば、その時に既に袁術が滅んでいたか、或いは滅びかかっていたからであろう。即ちこの出来事の年代は袁術が皇帝を僭称した197年以降の事と考えられる。
その後は荊州で弟とともに晴耕雨読の生活に入る。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、その事は周りは認めず、親友の崔州平や徐庶だけがそれを認めたと言う。また好んで『梁父吟』を歌っていたと言う。管仲・楽毅・あるいは梁父吟に謡われる晏嬰、この三人は全て君主に仕えて大ならしめた人であり、自ら英雄になるのではなく、誰かの補佐になりたいと言う孔明の志望が見える。また、ある説では諸葛亮が生来、病弱のために27歳になるまで仕官ができなかった事情も窺えることができる。
この時期に地元の名士・黄承彦の娘の黄月英を娶ったようである。これは裴松之注にのみ見える話で「『襄陽記』曰く」と書いて黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る。」と言って孔明はこれを受け入れた。その後、周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない。」と囃し立てたという。
[編集] 三顧の礼 その頃の情勢はどうかと言えば、200年に曹操が袁紹を打ち破って華北の覇権を手中にしており、後の孔明の主君・劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼って、荊州の北部・新野(河南省新野)に居城を貰っていた。北の曹操の強大化に伴い、それまでは平和であった荊州も危険なのではないかと有志の間では話し合われていたが、頭領の劉表は年齢から病気がちになり、その後継も長男・劉琦と次男の劉琮で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。
その中で孔明は相変わらずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており、徐庶は孔明の事を劉備に話していた。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「孔明は私が呼んだくらいで来るような人物ではない。」と言い、劉備は3度孔明の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之注には「『魏略』曰く」と書いて、孔明の方から劉備を訪ねたという話を載せている。また別に『襄陽記』から劉備に対して人物鑑定家として有名な司馬徽が「伏龍・鳳雛とは孔明と龐統の事だ。」と言ったという話が載せてある。
この時、孔明は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、これを持って天下を争うべきだと勧めた。そして、諸葛亮は劉備に仕えた。
[編集] 赤壁の戦い 208年、その頃の劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を孔明に聞こうとしていたが、孔明の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に孔明を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、孔明に助言を求めた。
観念した孔明は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に対して外に出て身の安全を図る事を薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど孫権により江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉琦が持った兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となっている。これはやはり孔明の深慮遠謀であったと見て良いだろう。
同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。
まもなくして曹操が南下を開始、中国統一にいよいよ乗り出してきた。
劉琮は曹操に降伏し、劉備は手勢を連れて逃れ、孫権との同盟を画策する。その時に孫権から魯粛が情勢観察のために派遣されてきて、孔明は魯粛と共に孫権の元へ行き、孫権に対して曹操への交戦を説き、同盟の締結を説いた。
『三国志演義』では孔明が降伏に傾きかけていた孫権の気持ちを変えた事になっており、実際に孔明の弁舌は影響を与えたであろうが、孫権が最も信頼する周瑜も早くから交戦を唱えており、決定付けたのはやはり周瑜の弁舌であろう。
その後、孫権・劉備連合軍と曹操軍は対決し、連合軍の勝利に終わる。これが赤壁の戦いである。『三国志演義』ではこの戦いに於いて色々と活躍する孔明であるが(詳しくは後述)、『三国志』には孔明の活躍はほとんど書かれておらず、実際に活躍したのは周瑜たち孫権軍の将兵である。
[編集] 入蜀 戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を付いて荊州南部の四郡を占領し、孔明は軍師中郎将に任命され、四郡の内の三郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この時期に孔明と並び称された龐統が劉備陣営に加入している。
211年、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋から五斗米道の張魯から国を守ってほしいとの要請が来た。しかしその使者となっていた法正は同僚の張松と益州の支配者を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めはこれを渋るが、孔明と龐統は渡りに船と劉備に強く薦め、劉備も益州を奪うことを決心した。
劉備は龐統・黄忠・法正を連れて益州を攻撃し、他の主な幹部、関羽・張飛・趙雲と孔明は魏・呉対策のために荊州に残した。しかし益州攻撃に苦戦し、龐統が戦死するに至って孔明は張飛・趙雲らを連れて援軍に赴いた。214年、劉備軍は益州を平定し、孔明は軍師将軍・左将軍府事となった。ここでかつて孔明が計画した天下三分が定まった。
[編集] 夷陵の戦い その後、劉備は曹操と争って漢中を領有し、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策により、捕らえられて殺され、荊州は孫権に奪われた。更に220年には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏を建て、翌年に対抗して劉備が皇帝に即位して蜀漢を建て、孔明は丞相・録尚書事となった。
『三国志』「諸葛亮伝」では入蜀から一気に221年の劉備の皇帝即位に話が飛び、この間は孔明は劉備不在の際には成都を守り、兵士の食料を供給していたとだけ書かれている。おそらくは後方支援の他にも支配体制の確立を行っていたのだろうが、このようなことは史書には残りにくい。また、この時期には従軍の際の劉備の傍らには法正があり、それぞれ役割を分担していたと考えられる。ただ『蜀記』という書物からの引用に「孔明が入蜀後に新しい法律の制定に力を注いだ。その内容は大変厳しく、峻烈であった。これに対して法正が、『高祖(劉邦)の法三章の故事に倣い、もっと法律をやさしくすべきではないか』と問いかけてきた。孔明は『蜀の旧主の劉璋は暗弱であり、きちんとした政治がほとんど行われていなかった。だから今は厳しい法で民が生業に安心して従事できるようにすべきである。』と答え、法正はこれに感服した」という。この話はどうやら後世作られたものらしいが、これからは孔明は法家的な考え方をする人物であるように取れる。
劉備は関羽の弔い合戦と称して後に進軍を計画する。この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されると言う事件が起こり、孔明は張飛が就いていた司隷校尉(首都圏の長官)を兼務する。この戦いは最初は上手く行っていたが、陸遜の作戦にはまり、劉備軍の大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、孔明は「ああ、法正が生きていれば主君を諫めたであろうに。」と嘆いた。(法正は220年に死去している。)
劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で223年に死去する。死去にあたり劉備は孔明に対して「君才十倍曹丕、必能安国、終定大事。若嗣子可輔、輔之。如其不才、君可自取」(君の才曹丕に十倍し、必ず能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔くべくんば、之を輔けよ。如し其れ不才ならば、君自ら取るべし:君の才能は曹丕の10倍である。きっと国を安定させて、最終的に大事(=中国統一)を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい)と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「臣敢竭股肱之力、効忠貞之節、継之以死」(臣敢へて股肱の力を竭(つく)し、忠貞の節を効(いた)し、之を継ぐに死を以てす:私は思い切って手足となって働きます。)と答えた。
李厳のように諸葛亮に帝位に就くよう暗に勧める者もいたが、諸葛亮はあくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。
[編集] 北伐 223年、劉禅が皇帝となると、諸葛亮は、武郷侯・開府治事・益州牧になり、蜀の政治のすべてを任されることになる。関羽の死によりこじれた呉との関係を鄧芝(鄧は登におおざと)を派遣して修復し、魏に対する北伐を企図する。
その前段階として、南(雲南)で漢人官僚の搾取に対して雍闓が反乱を起こすが、225年に南征し南方を安定させる。この地方から得た財物で軍資を捻出し、国を富ませたという。またこの時にいわゆる七縱七禽の故事があったとも言われるが、陳寿の本文には登場しない。詳しくは孟獲の項を参照。
227年、準備を整えた孔明はいよいよ北伐を決行する。北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり、「これを読んで泣かないものは人間にあらず。」とまで言われた。「表」とは公表される上奏文のことである。
一回目の北伐で孔明はかつて蜀から魏へと下った将軍・孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に下った後は異常なまでに曹丕に寵愛されていたが、226年の曹丕の死後はそれまでの寵愛振りから嫉妬を受けて、極めて危うい状況にあった。その情報を偵知していた孔明は孟達に対して調略の手を伸ばし、孟達もこれを受けようとしていた。しかし魏の名将・司馬懿はこの情報を察知するや否や孟達を攻め滅ぼし、孔明に介入する間を与えずに孟達を討った。
最初に躓いたものの孔明の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進軍を開始した。この時に将軍・魏延は分隊を率いて、一気に長安を突いて、その後に孔明の本隊と合流する作戦を提案したが、孔明はこれを受け入れなかった。魏延はこの後、北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも孔明により退けられている。
孔明は名の知れた宿将である趙雲をおとりに使い、魏の大将軍・曹真の裏をかくことに成功し、そのことで魏の西方の領地である南安・天水・安定の三郡(いずれも現在の甘粛省に属する)が蜀に味方することを表明した。
魏はこれに対して司馬懿と並ぶ宿将の張郃を派遣した。孔明はまたも趙雲をおとりに使い、最も重要な地点である街亭に自分が最も可愛がっていた馬謖を使うが、これが大失敗であった。馬謖は孔明の指示を無視して山上に布陣したため、張郃により山の下を包囲され、飲料水を確保できず、破れかぶれの反撃に出たところで張郃軍により完膚なきまでに撃破された。以前、劉備が白帝で病床にあった時に「馬謖は言う事が実際に行う分より大きいからあまり重用してはいけない。」と言っていたのだが、孔明は馬謖を信任してしまった。
街亭で敗北した蜀軍は全軍を引き上げさせ、孔明は馬謖を敗戦の罪により誅殺し、自らも三階級降格として丞相から右将軍になった。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。ちなみに『三国志』「蜀志」の「向朗伝」に「馬謖が逃亡して、再び捕まった」との記述がある。孔明が右将軍となったと言っても蜀を運営していけるのは孔明以外におらず、実質上は丞相であった。
同年の冬、再び孔明は北伐を決行する。この時に上奏したとされるのが『後出師表』であるが、これは偽作説が絶えない。しかし二度目の北伐では曹真に作戦を先読みされて上手く行かず、食糧不足により撤退した。
更に翌年、第三次の北伐を決行する。武将の陳式(陳寿の父という説もある)に武都・陰平の両郡を平定させた。この功績により、再び丞相の地位に復帰する。
翌年に再び、第四次の北伐を行うが、食料不足により撤退する。この撤退の時に魏の張郃を討ち取っている。ところがこの食糧不足は食糧輸送の一切を監督していた李厳(この時は李平)が孔明に手柄を独占されたくないと考えて、偽って食料を送らなかったのであり、孔明が帰還した所で李厳は「食料は足りているのになぜ退却したのですか?」などと聞き返してきた。これに呆れた孔明は李厳を庶民に落とした。
そして234年、第五次、最後の北伐に出る。この戦いで孔明は屯田を行い、持久戦の構えを持って五丈原で司馬懿と長い時間に渡って対陣する。しかし食糧不足が解決されても今度は孔明の健康問題が生じてきた。頼りにしていた呉が荊州と合肥の戦いで魏に大敗し、司馬懿は専守防衛に徹した。 孔明は陣中で病に侵されていたが、ついにそのまま陣中で没した。234年8月23日のこと。享年54。
蜀軍は退却するが、その途中で魏延と楊儀とで争いが起こり、孔明の与えておいた策で楊儀が勝ち魏延を殺した。蜀軍が引き上げた後の陣地跡を見た司馬懿は陣地の素晴らしさを見て、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
孔明は、漢中の定軍山に魏が見える様に葬られたという。遺言により質素な墓とされた。
孔明が死んだ事を聞いた李厳は「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった。」と嘆いた。
[編集] 先祖についての逸話 先祖である諸葛豊は、厳格で剛直な性格で知られていた様で、誰彼構わず疑わしい者は事情聴取をしていた様(司隷校尉という役職を考えると、職務に忠実であったとも言えるが)で、諸大夫から煙たがられていたという。この頃、諸大夫の間で遅刻をした時に「諸葛に会っていたもので」という言い訳が流行した程の人物であったらしい。
[編集] 評価 前述の司馬懿の評、『三国志』を著した陳寿の評、あるいは蘇軾・朱熹などと言った有名所から現代の素人歴史家に至るまで、孔明を評したものは数限りなくある。
陳寿の評では『どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。みなこれを畏れつつも愛し、刑罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する』と最大限の評価を与えている。しかしその一方で「応変の将略はその長ずるところにあらざるか」(臨機応変さは孔明の得意ではなかったのだろうか)とも書いており、孔明は政治家として有能であったが軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや口を濁した形になっている。ちなみに陳寿の評の場合は父とされる陳式が諸葛亮によって処刑されたことがあるために評価を厳しくしたと言う説は、『晋書』「陳寿伝」にある(ただし、『晋書』の陳式を陳寿の父親とする説には、年代的に合わないとして否定する意見もある)。
この評に対して、前半部分の公平・厳格・政治的天才の部分については基本的に後世の評者たちも異論が無い所であるが、後半の軍事的才能についての部分は色々と取りざたされることとなる。(詳しくは晋書の項を参照。)
他に蘇軾の評「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した。」、朱熹の評「孟子以降の人物としては張良と孔明がいるのみである。」などなど。
孔明を後世の人が批判する主な要点は、
劉璋をだまし討ちにしたのは正しいと言えるか。 魏延の作戦を採用していれば魏に勝ったのではないか。 馬謖や魏延の登用に関して、人を見る目がなかったのではないか。 と言った点が挙げられる。
1の点に関して蘇軾の批判の言葉「劉璋をだまし討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋をだまし討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い。」と述べている。逆にこの点を弁護した言葉として明代の学者・王世貞は「劉璋の地位(益州牧)は漢朝廷から認められたものではない。また劉璋から奪った土地が賊(曹氏)を討伐する基になるのだからやむをえない事である。劉備が劉璋の財産を保護して荊州に住まわせた事は良い処置であった。」と述べている。
2の点に関して注記しておく事は、『三国志演義』では西に一旦出て、そこから堅実的に進もうとした孔明に対して魏延が「別働隊を持って長安に直接繋がる道である子午谷(しごこく)を通って長安を急襲し、その後で孔明の本隊を迎えたい」と言ったと成っているが、『三国志』では「別の道を通って(長安の東にある)潼関に行きたい」と言っているだけである。つまり長安を攻めるのかあるいは別の拠点を攻めるのかははっきり書かれていない。もちろん『演義』のものもその想定されるルートの一つではあるが、はっきりはしない。歴史的な孔明に対して論評しているはずのものでも『子午谷を通って…』と書いてあるものがあり、『演義』(とその前身の作品群)による影響が見られる。
3の点に関して街亭において馬謖を起用し、大敗を招いたことはその証左とも言える。このとき、趙雲や魏延は合戦経験豊富な呉懿を起用することを薦めたが、諸葛亮は受け入れなかった。また、上記の通り、劉備は生前諸葛亮に対し、馬謖の欠点を指摘済みであった。一方で、劉備が重用した魏延との折り合いは必ずしも良くなかったが、その忠勇は評価しており、劉備生前の通り漢中太守として魏との最前線を担当させた。
[編集] 『三国志演義』中の諸葛亮 『三国志演義』中の本文中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである。この他、関羽も字で呼ぶか、「関公」と名前を呼ばずに敬意を表している。これは、以上の三人がこの物語の主人公であると暗に示している。特に諸葛亮の場合は『三国志演義』後半の主人公と言われる。
『三国志演義』の成立は明初と考えられているが、その前身である講談などの民衆文化は北宋代から広がっていったと考えられる。それらのなかで孔明は、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。以下、孔明の事跡に於ける『三国志』と『演義』の主な相違点を挙げる。
『演義』では曹操の南下作戦に於いて、曹操はその前に夏侯惇に十万の兵士を付けて派遣するが、孔明の作戦でこれに大勝した。となっているが、実際にはこの戦いは孔明が劉備軍に参加する前の話である。またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた。
赤壁の戦いに於いて、前述の通り孔明はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる。戦いが始まってから周瑜は孔明の才能を恐れるようになり、孔明に対して10日で矢10万本を作れと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、孔明は霧の出た夜に曹操軍に対して夜襲を仕掛け、曹操軍が打った矢を鹵獲して帰った。しかし、正史でこれを行ったのは孫権である。更にこの戦いでは曹操軍を火責めにすると決まっていたものの風が北西の風しか吹かず、このままでは火を付けてもその火が自分たちに帰ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで孔明は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたとなっている。
赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、孔明はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、孔明に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て孔明に看破され、再び怒った周瑜は「天はこの世にこの周瑜を生みながら、なぜ孔明を生んだのだ!」と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』にはない。
北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも演義の話だが、この話とよく似た話としては、徳川家康軍が三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した為に全ての城門を開き、それを怪しんだ武田信玄が進軍せずに撤退した。
北伐に於いての孔明は『演義』では魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その後の最後の北伐に於いて、病状が悪化した孔明は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去した。孔明の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て孔明の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。所が蜀軍には孔明の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。実はこの孔明は木像であった。後に現地の人間は「死せる諸葛、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったとなっている。(この台詞は正史の注『漢晋春秋』にあるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)
その清廉潔白さに対する民衆の期待や弱小な王朝に対する判官びいき的心情が混ざって、このような人間として描写する原動力となったのであろうと考えられる。 また、成立年(北宋期あるいは明初)から考えて、王朝に忠なる臣の理想像として過剰に持ち上げられた人物との評もある。
[編集] 著作 孔明の著作としてはもちろん『出師表』が最も有名である。ただ漢詩などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関した文章である。孔明の文章を陳寿が編集した『諸葛亮集』と言う書物があったが、これは現存していない。
演義では、『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。
『三国志』中に引用されているものとして『出師表』の他には李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。
『後出師表』は陳寿の本文には無く、呉の人・張儼(ちょうげん)の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が引用したと成っている。しかしこの文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲がなぜかすでに死んでいる事にされており、偽作の疑いが強い。
諸葛亮は発明家でもあり諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧・姜維に伝えた銅弩機(連弩)・一説には一輪車の起源とされる木牛と流馬・駐留時栽培させた諸葛菜(かぶ)・織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦・首を祀るという風習を首の代わり祀らせた饅頭(はじめ蛮頭と呼ばれる)・字を知らない民の教育に使用した紙芝居(日本の紙芝居とは起源が異なると思われる)・孔明が考案したおもちゃ孔明鎖・現在雲南地方に孔明発明の物として孔明灯なるものなどがある。
[編集] 諸葛亮の子孫たち 中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市にあり全員の名字が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)が見つかるが、諸葛京自身も1800年も前の人物であるので実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である。
-- 諸葛八卦村 -浙江省観光局公式ページより "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE" より作成
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